6月17日のRecordは「中間地点にいる人」の記録でした。
Current Location
まだ宙に浮いている。
しかし昨日までとは少し違う。
以前は足場がないように感じていた。
今は、足場がないのではなく、まだ作っている途中なのだと思うようになった。
何者になるべきかを考える時間よりも、何に心が動くのかを観察する時間が増えた。
その結果、以前よりも不安は減った。
代わりに、問いが増えた。
私はどこへ向かうのか。
ではなく、私は何に触れた時に生きている感覚を持つのか。
その方が今は重要に思える。
Now
ここ数日、多くの作家や映画監督、音楽家との仮想的な対話を繰り返していた。
もちろん実際に会ったわけではない。
しかし、その対話を通して気づいたことがある。
私は作品を作る方法を知りたいのではなかった。
生きる方法を知りたかったのだと思う。
スタンリー・キューブリック。
ヴィム・ヴェンダース。
ジム・ジャームッシュ。
オラファー・エリアソン。
ブライアン・イーノ。
太宰治。
彼らの言葉を借りながら考えていたのは、結局のところ自分自身だった。
誰かの思想を学ぶというより、自分の輪郭を確かめるために対話していたのだと思う。
また、その対話を通して、自分が作品そのものよりも、その中で生まれる滞在時間に興味を持っていることにも気づいた。
何かを見せたいのではない。
人がどれだけそこに留まり、どのような速度で世界を見始めるのか。
その条件を作りたい。
最近は作品よりも、人との記憶について考えている時間が長い。
不思議なことに、短い時間しか共有していない誰かの存在が、長い時間を共にした人よりも深く残ることがある。
その理由はまだ分からない。
Current Practice
写真を撮っている。
文章も書いている。
しかし最近は、それらを作品として完成させることよりも、感覚の変化を観察することに重心がある。
以前は風景を見ていた。
今は風景を見ている自分を見ている。
同じ雨でも、
同じ光でも、
同じ記憶でも、
その時々で全く違うものとして現れる。
私はその変化に興味を持っている。
また、About、Records、Journalという構造を考える中で、自分について説明することと、自分を記録することは全く別の行為だと気づいた。
説明は固定しようとする。
記録は変化を残そうとする。
今の私は後者に近い。
最近は写真、文章、展示という分類にも以前ほど興味がなくなった。
写真と文章。
雨と記憶。
葉っぱと氷。
異なるもの同士を隣に置くことで生まれる関係性に惹かれている。
振り返れば、私はずっとそれを繰り返してきた気がする。
Direction
最近、「静寂の設計者」という言葉を以前とは違う意味で捉え始めている。
静かな空間を作る人ではない。
静けさが立ち上がる条件を探している人なのかもしれない。
それは展示かもしれない。
写真かもしれない。
文章かもしれない。
あるいは誰かとの会話かもしれない。
重要なのは媒体ではない。
何かが失われた後に残る感覚。
説明できないまま残り続ける記憶。
そのようなものに触れられる状況をどう作るのか。
私はまだその方法を知らない。
だから作り続けている。
最近は作品を増やすことよりも、自分が本当に作りたいものを見失わないことの方が重要に思える。
世界は刺激や情報で満ちている。
その中で私は、爆発よりも残響に関心がある。
強い主張を残すことではなく、去った後も微かに残り続ける感覚をどう設計できるのか。
これからしばらくは、その問いを追いかけることになると思う。
Notes
最近、自分について説明することに以前ほど興味がなくなった。
経歴や肩書きよりも、その人がどのような気候を生み出しているのかの方が重要に思えるからだ。
私は特別な関係を求めているのだと思っていた。
けれど本当に手放したくなかったのは、関係ではなく存在だった。
その人がそこにいたという事実。
一緒に歩いた道。
交わした言葉。
そうしたものが失われていくことへの悲しさだった。
記憶は少しずつ薄れていく。
写真も文章も、それを止めることはできない。
それでも私は記録を残す。
忘れないためではない。
忘れていく過程を見届けるために。
雨が降る。
鳥が鳴く。
記憶が薄れていく。
誰かを忘れたくないと思う。
その事実を見つめ続けたい。
意味は後から生まれる気がしている。
この記録も、そのために書いている。
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